RPE(北野幸伯さんのメルマガ)研究室

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北野幸伯 - Wikipedia

私淑している政治経済ジャーナリストです。

ロシア在住の同年代の方なので、日本から一歩も出ずに生きてきた私には、感じることのできない国際感覚をお持ちだと思っています。

北野さんの主張は、冷静な分析で祖国日本の生き残る道を、メルマガや著作で日本に生きる我々に示唆してくれています。

多くの日本人に北野さんの現状分析を伝えたいというのが、私のささやかな希望です。

 

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国立戒壇も日蓮正宗も捨てました。by 池田大作


創価学会池田大作会長 不滅の十万結集 男子部幹部会 昭和36年7月4日

国立戒壇問題は、色々と語られていますが、池田大作の慢心による不祥事隠しの為に、昭和45年に放棄されました。

国立戒壇 - Wikipedia

概要
仏教系新宗教の在家団体である立正安国会(後の国柱会)の創立者田中智學が、1902年(明治35年)の『本化妙宗式目』において最初に提唱した概念である。

大日本帝国時代の法華宗各派においてこの構想は、天皇帰依の実現こそ広宣流布実現の近道という当時の一般的な状勢判断と結びついて、広汎な支持を受けた。

日蓮の手紙「三大秘法稟承事」に書かれているように、国の許可を受けて戒壇を建立するのが日蓮の悲願であり、遺言であると弟子たちは受け取っている。

歴史的にみても、戒壇の建立は国家的な事業であった。しかし、第二次世界大戦以降、政教分離を規定した新憲法が施行され、天皇が主権者でなくなると、天皇帰依を前提とした国立戒壇論の意義は変化することとなり、法華宗各派において論じられることがなくなった。しかし、日蓮正宗およびその信徒団体は、国立戒壇という用語を使用し続けた。

1970年(昭和45年)4月15日の衆議院予算委員会において日本共産党の谷口善太郎が「国立戒壇政教分離を規定する憲法に違反するではないか」と指摘する。これを受け、日蓮正宗および創価学会は、国立戒壇という用語の使用を自宗内で禁止した。しかし、日蓮正宗の信徒団体だった妙信講(現・冨士大石寺顕正会)は使用禁止命令に従わず、国立戒壇という用語を使用し続けたため日蓮正宗を破門されている。妙信講は破門されたのちに宗教法人顕正寺」として独立し「日蓮正宗顕正会」と名乗る。1996年に宗教法人顕正会」、通称「富士大石寺顕正会」と改め、引き続き国立戒壇論を主張している。

仏教系新宗教各派における国立戒壇
創価学会
創価学会は、2代会長戸田城聖が就任した直後の1950年代前半には「王仏冥合」「国立戒壇」を目指し、その実現を主張していた[1]。戸田は自ら筆を揮っていた機関誌『大白蓮華』の巻頭言で「化儀の広宣流布とは国立戒壇の建立である」[2]と述べていた。ただし同時に、「未来の日蓮門下に対して国立戒壇(本門の戒壇)の建立を命ぜられたものであろう」とも述べ、戒壇を建立する主体はあくまで日蓮門下であって権力たる日本国政府ではない[3]と明言している。

戸田の後任となる3代会長池田大作は1960年(昭和35年)の会長就任に当たり、「戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進の指揮を執らせていただきます」と挨拶した[4][5]。池田は1965年(昭和40年)、500万世帯弘通を達成した創価学会を代表して大石寺に正本堂建立を発願する。この時、日蓮立正安国論真筆において用いた「クニガマエの中に民衆の民と書いて『囻(クニ)』と読む」文字の解釈を基に、日蓮が意味する国の意味は国家権力ではなく、民衆であるという新たな見解を明らかにした。

そして、日蓮仏法を奉じる民衆の代表たる正宗総講頭、および当時その地位にあった創価学会会長の発願で戒壇は建立できると説明した[6]。

「正本堂 (大石寺)#正本堂の位置づけをめぐって」も参照
しかし、この考え方に日蓮正宗内では妙信講が「国立戒壇はあくまでも国家権力の許しを得たものでなければならない」と反発(後述)。外部からも1970年(昭和45年)の共産党による「国立戒壇論は『国から特権を受け』ることになり憲法20条に違反する思想といわなければならない」という非難を受け、学会・日蓮正宗宗門は守勢に立たされた(前述)。この指摘に対し創価学会では「国立戒壇について」という文書で、次のように回答している。

本門戒壇とは本尊をまつり信仰の中心とする場所のことで、これは民衆の中に仏法が広まり一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建てられるべきである。
一時、本門戒壇国立戒壇と呼称したことがあったが、本意は1で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門も事業として行うのであって、国家権力とは無関係である。
政教分離原則#宗教団体の政治参加について」および「言論出版妨害事件#宗教活動に関して」も参照
一方で、「国立戒壇の『クニ』は「クニガマエの中に民衆の民と書いて『囻(クニ)』と読む」文字」という見方は引き続き学会教学部内を貫く思想となり、これが1972年(昭和47年)に正本堂が完成した際「御遺命達成。ありがとう」という池田会長名義のメッセージが出される原因になったと見る向きがある。

その後平成時代になって池田は「戦後民主主義体制で主権在民になった以上民衆の意思が『勅宣・御教書』に代わるものである」「正宗を国教にするとかえって一国化し大聖人の御精神に反してしまう」と説明し、この問題の決着を図った[7].

冨士大石寺顕正会
大石寺の信者団体から分派した冨士大石寺顕正会は、広宣流布完結の暁には国立戒壇が必ず建立されると位置付ける。

顕正会広宣流布は、日本国民全てが顕正会の奉じる日蓮仏法を受け入れるか、その前でも国主が帰依した時を持って完結すると定める。そして、広宣流布の完結と同時に建立される戒壇は、日本国家権力の頂点という意味での「国主」を建立当事者としなければならない[8]。またその国主は「ただ一人」であるという『報恩抄』の言葉を厳格に解釈し[9]、この場合は天皇の勅宣ないしは天皇の協賛機関たる国会の議決を得て建立が決められた「本門の戒壇」のみが国立戒壇と名乗ることができるとする。つまり、日蓮正宗宗門や創価学会の言う「民衆立戒壇」を認めず、「国家権力立」ないしは「皇室立」のみが国立戒壇となることを強硬に主張する。

広宣流布#冨士大石寺顕正会」および「冨士大石寺顕正会#国立戒壇と本門戒壇」も参照
正本堂完成の際には、正本堂が日蓮御遺命の戒壇に当たらないこと、権力立戒壇の建立を求める運動は継続していることを宗門・創価学会に確認させるため、「御遺命守護」を両教団との最大の対立軸として掲げ、正本堂に安置された本門戒壇の大御本尊を別の場所に遷座せよと主張した。1998年(平成10年)に大御本尊遷座が実現、正本堂は解体されるが、会長浅井昭衛は一度は賛意を示しつつも「管長阿部日顕の決定が一方的かつ独善的、未だに怨嫉の心を持ち続けている」などと批判して自派の思想を堅持する方針を明らかにした。

詳細は「正本堂 (大石寺)#創価学会の破門と正本堂の解体」を参照
そして、『国立戒壇が現行作られるものではなく、未来に作られるとされる以上、現行の憲法で「合憲か違憲か」を考察すること自体不毛の論議である。なぜなら国立戒壇建立時にどのような憲法になっているかは分からない。憲法20条は永遠のものではないし、その改憲を主張することは違憲では無いからである』とし、顕正会は自派の求める「権力公認」の戒壇建立が実現するまであくまでも国立戒壇という用語を使用し続け、宗門・創価学会もまたその原点に立ち返らなければならないと主張している。

問題は、池田大作にあるのではありません。

あのような朝鮮の阿呆を放置した日蓮正宗にあるのです。

日蓮正宗は唯一正当な宗教です。

本門の戒壇である大御本尊様を奉持する宗教でありまする。

しかるに、創価学会に諂って御遺命を曲げてしまった。

ああ、日達上人は正本堂から7年目の昭和54年に、御相承の儀を執行できずにお亡くなりあそばされました。

日蓮正宗宗門史において、最大の信徒数を誇った時代においてであります。

正本堂建立より数えて7年目のことでありました。

以降、どうなったか。

創価学会は他の邪宗教よりも、日蓮正宗を憎む仏法破壊の大導師となりはてたのであります。

国立戒壇建立は日蓮正宗の悲願でありました。

公明党が選挙に負けるという理由で放棄してよいような、軽い目標ではありません。

日蓮正宗歴代上人の戒壇についての発言

三十七世 日■(《ぽう》ぎょくへんにたてまつり)上人

「仏の金言空しからずんば、時至り天子・将軍も御帰依これ有り。此の時においては、富士山の麓・天生原に戒壇堂造立あって…」(御宝蔵説法本)

五十六世 日応上人
「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布という。その時、天皇陛下より勅宣を賜わり、富士山の麓に天生ヶ原と申すこうこうたる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって…」(御宝蔵説法本)

● 五十九世 日亨上人
「宗祖・開山出世の大事たる、政仏冥合・一天広布・国立戒壇の完成を待たんのみ」(大白蓮華十一号)
「唯一の国立戒壇すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)

● 六十四世 日昇上人
国立戒壇こそ本宗の宿願なり。乃至時を待つべきのみ、事の戒法とは之なりの金言を体して、必ず来るべき国立戒壇建立の暁まで(戒壇の御本尊を)守護すべし、後々の法主も一心同体たるべきを確信する」(聖教新聞 昭和30年11月27日)

● 六十五世 日淳上人
「この元朝勤行とても、宗勢が発展した今日思いつきで執行されたというのでは勿論なく、二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて、国立戒壇を念願されての広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります。大石寺大坊の棟札に「修理を加え丑寅之勤行怠慢なく広宣流布を待つ可し」とあるのが、これであります」(大白蓮華 昭和34年1月号)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
顕正会の主張

では、冨士大石寺歴代上人が、異口同音に国立戒壇を叫び続けてこられたその文証を挙げてみよう。
 まず

■ 二祖日興上人は

広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時、必ず富士山に立てらるべきなり」(門徒存知事)、 

偽書 「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原(あもうがはら)に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」(大石寺大坊棟札)

■ 二十六代日寛上人は

「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原(あもうがはら)に戒壇堂を建立するなり。御相承を引いて云く『日蓮一期の弘法、乃至、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』と云々」(報恩抄文段)

■ 三十一代日因上人は

 「国主此の法を持ち、広宣流布御願成就の時、戒壇堂を建立して本門の御本尊を安置する事、御遺状の面に分明なり」

■ 三十七代日■(にっぽう)上人は

「仏の金言空しからずんば、時至り天子・将軍も御帰依これ有り。此の時においては、富士山の麓・天生原に戒壇堂造立あって…」(御宝蔵説法本)

■ 四十八代日量上人は

「事の戒壇とは、正しく広宣流布の時至って、勅宣・御教書を申し下して戒壇建立の時を、事の戒壇というなり」(本因妙得意抄)

■ 五十六代日応上人は

「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布という。その時、天皇陛下より勅宣を賜わり、富士山の麓に天生ヶ原と申すこうこうたる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって…」(御宝蔵説法本)

 以上は明治以前の先師上人の御指南である。「国立戒壇」の文言こそ用いておられないが、意はそれを指すこと文に明らかである。
(※、以上「国立戒壇」という語は誰も用いておられない)

 次いで大正以降の歴代上人の文証を挙げる。

■ 五十九代日亨上人は
「宗祖・開山出世の大事たる、政仏冥合・一天広布・国立戒壇の完成を待たんのみ」(大白蓮華十一号)、 
「唯一の国立戒壇すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)

■ 六十四代日昇上人は

国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿慶讃文)

■ 六十五代日淳上人は

「蓮租は国立戒壇を本願とせられ、これを事の戒壇と称せられた」(日淳上人全集)、 
「この元朝勤行とても、宗勢が発展した今日、思いつきで執行されたというものでは勿論なく、二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての広宣流布祈願の勤行を、伝えたものであります。大石寺大坊棟札に『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく、広宣流布を待つ可し』とあるのが、それであります」 (大日蓮三十四年一月号)と。

 以上の文証は、大石寺歴代上人が国立戒壇の御遺命を叫ばれた御文の中のごく一部である。
およそ血脈付法の正師にして、国立戒壇を叫ばれなかった貫主上人は七百年間一人としておられない。
 

細井管長も曽ては国立戒壇

 創価学会に迎合して国立戒壇を否定した

■六十六代細井日達上人ですら、登座直後においては歴代上人と同じく、御遺命の正義を次のように述べていた。
 
 「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが日蓮正宗の使命である」(大白蓮華三十五年一月号)
 「真の世界平和は国立戒壇の建設にあり」(大日蓮三十五年一月号)
 「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮三十六年五月号)と。
 

日本の国は日蓮大聖人の生まれた、根本の妙国であります。

国立という概念は、明治以降に西洋哲学が流入してからできた造語ですから、過去に範例を求めても得られないのは当たり前です。

国立戒壇を放棄した1970年から21年後(7年×3)の、1991年に創価学会日蓮正宗から破門されるに至ったことは偶然ではないと思うのです。

 

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